■■ 追憶の彼方 ■■



はじめに。
この『伊太利亜ものがたり』は基本的ノンフィクションというスタンスをとっております。
作品に登場する人物、場所、行為、発言等は大方実際のモノですが、一部、適当な味付けを加えております。
殆ど作り話ですが、
関係者の皆様、どうか笑ってご覧になって頂きたいと思います。
どうか笑って済まして頂きたいと思います。
それでは。

第1章 用意周到とはこのことだ

論文発表終了から卒業までの1ヶ月、俗に言う『仮釈放期間』に海外へ逃亡することは
教授からの突然の呼び出しを防ぐジョウトウ手段である。


2月上旬。
テルヲとトモは焦っていた。
当初逃亡先をロシアに定めていたが、予想外に高い旅費と
列車エキスパートひろさとちゃんの
「つべこべ言わずにいいから逝けっ!」突然マジギレ発言に臆し破談。
その後ベトナムに方向転換をするもリーダーたけしの突然の離脱宣言に
10日前になっても行き先が決まらない異常事態となった。

一方、しっかりモノのムツ&コウイチローは着実にイタリアでのプランを練り上げていた。
  ムツ「ピサにいく」
コイチロ「オードリーになる」

窮地に立たされていたテルヲ&トモはリサーチにリサーチを重ね(注1)
とあるお手頃イタリアツアーを突き止める。
このツアー、『Ciao!イタリアーノゆきづりの恋ツアー(仮)』こそが
ムツ&コウイチローが参加し、イタリアでの激動8日間の舞台となるツアーだとは
このとき知る由もなかった。



(注1)HISホームページ熟読。ひたすら熟読。

第1章 完

第2章 幸せの珈琲、不幸せの珈琲

旅行当日。
すっきり晴れあがった天気とは裏腹にトモの心は沈んでいた。
旅行期間直後に予定されていた論文発表を行うか否かで担当教授とハゲしくやり合い(注2)
ナイーヴな心はかなり傷ついていたのだ。
そんな心の病を知ってかテルヲは優しくモーニングコーヒーを手渡す。
自動販売機だけでは説明出来ない暖かさを感じ、
すっかり鬱を脱したトモの気分は一足早くイタリアへと飛んでいた。


ムツ&コウイチローとのファーストインプレッションは強烈だ。
方や担当教官の目を盗みガイドブック100頁を全てコピーし持参したコウイチローに対し
HISの親切心を反故にし、スーツケース持参せずというスタイルを貫くムツ。
この二人に憑いて行けば間違い無し、トモの耳にはそう聞こえた気がした。

結局4人で成田マックでの朝食を楽しんだ後
他のツアー参加者との待ち合わせ場所についた頃にはすっかり意気統合。
集合時間をオーバーし、旅行注意をとうとうと説明するツアコン山口先生(ぐっさん)に
個人的注意を受ける始末であった。

「貴方達、どのくらいまで聞いてた?」
「いやー。全く。」
「仕方ないわねー。じゃ、もう一回説明するわよ。」
「すみませーん。」
「あはははは・・・」

「イタリアではカリカリしたら負けなんだな。うん。」
しっかりメモをとるコウイチローを3人は尊敬の眼差しで見つめていたが
この最も冷静さを備えていた男でさえ『マックそのままダッシュボックス事件』(注3)
を引き起こすほど実は浮き足立っていた。
そのため、このときぐっさんに注がれる熱視線に気付くものは誰一人として居なかった。
セクハラまがいのボデーチェックを受ける間
はしゃぎながら写真撮影をしている間、
HISのパスポートケースは使いづらい話をしている間
ずっとその視線はぐっさんを捉えて離さなかった。


イタリアへの空路はイギリス・ヒースロー空港経由、イタリア・マルペンサ空港行き。
BA008便は定刻通り成田を離陸、雲一つない大空へと飛び立った。
機内で4人はエコノミー症候群と闘いながら各々の時間を過ごしていた。

3人から離れ座っていたムツは機内映画をぼんやり眺めていた。
「ニコラスにはマンドリンが良く似合うな。」
そう思いながらふと視線をぐっさんに向けた。
少しやつれているように見えた。

「お疲れ様です。これから宜しくお願いします。」
関東甲信越一のジェントルマンと呼ばれたムツは紳士的に声をかけた。
少し驚きながらも、笑顔を返すぐっさん。
「これだけ人数が多いと大変ですね。ほっと一息って感じでも、…ないですね。」
「そうね。ちょっと、ね。でも大丈夫。」
多少気になったもののこれ以上追求するのも気が引けたムツは自席に戻り
再びマンドリンの音に耳を傾け、いつしか眠りに落ちていった。


どれ位時間が経ったのであろう。
持参した『ロード・オブ・ザ・リング』文庫本の余りのつまらなさに
離陸直後からフテ寝をしていたトモはすっかり照明が落とされた機内で目を覚ました。
隣の二人は共に寝ている。ビールを相当飲んだようだ。
斜め前のムツも寝ている。

目を閉じても眠ることが出来ないな、そう思ったトモは立ちあがり
トイレへと向かった。
同行するツアー参加者の顔を殆ど覚えていないトモは良い機会だとばかりに
ゆっくり辺りを見渡した。
幸い殆どの人が眠りについており、また起きている数人も静かに読書に耽っていたため
トモはじっくり顔を鑑賞することが出来た。
殆どが学生と思える若者であった。
そのなかで一人だけサラリーマンのような風貌をした男性が居た。
仕事は…?
少し疑問を感じたトモであったが
同級生にもサラリーマン風な首の傾げを既に体得している男が居るし、
顔だけでは判断できないな、と思い直し機内後方へ足を進めた。

トイレを済ませ丸窓を覗きこむと眼下は一面の雲海であった。
ただ唯一の変化は雲海に映り込み音も無く進むBA008の影だけであった。
暫し佇んだ後、席に戻り位置を確認するとシベリア上空10000m。
ロンドンまでは残り4時間。
もう一眠りして起きればロンドンだ、
そう自身に言い聞かせトモは目を閉じた。


ロンドンは雨。
日本にメールを送ったり
日本にメールを送ろうとして時間切れになったり
しているうちに滞在時間の2時間はあっという間に過ぎていった。
いそいそとBA574便に乗り込み、遂にイタリア上陸を果たしたのは
成田を経ってから約18時間後。
エスプレッソ珈琲のかをり漂うミラノ・マルペンサ空港に降り立ったツアー参加者は
皆一様に疲れ果てていた。

空港からホテルに向かうバスの中で
後ろから2列目右サイドの特等席を確保したテルヲは静かなミラノの街を眺めながら呟いた。
「エスプレッソじゃねーよ、ブリティッシュだよ…。」



(注2)トモは極めてノーマルな男である。念のため。いや、念のため。
(注3)2002年3月9日11時頃発生。あの忌まわしき9.11テロのあおりを受け、
(注3)ハンバーガーの中に武器を隠し持っていることを疑っている風な空港職員に対し、
(注3)コウイチローが憤慨。
(注3)「エックス線を通すくらいならこうしてやる!」
(注3)と怒りを込め金属探知ゲート前ダッシュボックスNO.2に
(注3)食べかけの、いや殆ど手をつけていないハンバーガーを叩き込んだ。
(注3)実際のところ誰もハンバーガーに疑いはかけていなかったのだが…。

第2章 完

第3章 ドゥオーモ、ドゥオーモ。イシイちゃんですっ。

まだ寝たり無いな、ミラノで迎える最初の朝はそれほど爽やかなものではなかった。
テルヲは体を起こし頭の中で前日の記憶を辿る。


前夜、ホテル『ibis』に到着し、指定された部屋に入ろうと試みたが
カードキーが上手く作動せずなかなか入室出来なかった。
そこですぐにぐっさんを呼びに部屋に向かった。
ぐっさんの部屋は解散前に知らされていたので記憶している。
単身でツアーに参加していた、こナガイ似(注4)の男が
「山口添乗員殿の部屋は何号室でございますか。」と速攻で質問したためだ。

ぐっさんに状況を報告しホテルマンに替えのキーを貰いにロビーへ降りると
そこにはあの、こナガイ似の男が居た。
誰ともすぐ打ち解けることの出来るテルヲであったが、さすがに長旅の疲れもあり
出来るだけ会話をしないよう、会釈だけでその場を立ち去ろうとした。
しかし、こナガイ似の男は口元に笑みを浮かべ、こう言った。
「お前、アレだろ?」

テルヲは混乱した。
何がアレ、なんだろうか?
いきなり初対面の人に対してこの言葉使い、
んー。まさにこナガイ煮、ステファニー仕立て。

答えに窮していると、こナガイ似の男は
「それじゃ、また明日。」
と言い放ち去っていった。


とんだ放置プレイだったな
すっかり思い出し、げんなりしながらも朝食をとるため部屋を後にした。
朝食は固いパンであった。


朝食を済ませバスでミラノ市内観光が始まった。
バスの中ではメトロの駅からホテルまでの道順を説明されるが
バスの外に流れるミラノの街並みに見入る4人の耳には全く届いていなかった。
ただ「チンクェ」だけはっきりと刻み込まれた。

本ツアー最初のスポットはスフォルツェスコ城
14世紀に栄えたヴィスコンティ家居城を15世紀に入りスフォルツァ家が改築。
壁に残される無数の穴は銃弾の痕ではなく、築城の際の足場である。
ミケランジェロ遺作となった『ロンダニーニのピエタ』(未完)
に必死に芸術の香りを感じとろうとする4人であった。

続いてツアー一行は免税店に立ち寄るが
4人は申し合わせたように店を抜け出す。
「ヴェネチアに行ってないのにヴェネチアングラスはないよな。」
4人の足は自然とミラノ中央駅へと向かった。
その壮大な外観に圧倒されるうち、ムツは皆と離れ一人駅舎の中に居た。
忙しなく行き交う人々の流れはまるで
ミラノを舞台に繰り広げられた栄枯盛衰の歴史を見ているかのようであった。

4人は再びツアーと同行し
スカラ座前からアーケードを通過しドゥオモへ。
上手く表現することが出来ない美しさ、荘厳さ、偉大さ。
尖塔の上に佇む彫刻の一体、一体が完璧なる芸術品として存在する。
そして最上に位置するのは金色のマリア
優しく見下ろすその視線に魂が浄化される思いを抱かぬ者などいやしない、
そう思えてしまうほどの美しさである。

昼食はツアーに組み込まれている店でリゾット、カツレツ、シャーベット。
この店で4人と同じテーブルについたのが、後に大事件を引き起こす
華の女医卵二人組、ヤミとマリッペであった。
昼間からアルコールを欲していたコウイチローとテルヲは
何やら同じタイプの人間だな、と感じていた。

自由行動となった4人はトモの希望で
ミラノ最古の教会『サンタンブロージョ教会』〜
16本の柱が現存する『サンロレンツィオ教会』を巡った。
その後、宗教画が数多く展示されている『ブレラ絵画館』へ。
途中、晴れてイタリア初マックを体験し有頂天になったトモが3人と逸れるという事態が発生するも
メトロ出口付近のポストにしがみつき途方に暮れているところを発見、保護。
「やっぱりメトロで一人ぼっちってのは恐いね。」

絵画鑑賞の後、ドゥオモ付近にまで戻り夕食をとることにした。
店の名は『Oliva』
この店で2つの事件が起こる。


そのときコウイチローは喉の乾きに限界を感じていた。
一刻も早くビールが飲みたい。
イタリアだけどビールが飲みたい。
4人しか居ないけど「ビアー、チンクェ」と言いたい。
しかしなかなか店の店員はオーダーをとりに来ない。
5分待ち、10分待ち…
イライラの頂天に達しかけたその瞬間、
やっとすっとこ顔の店員がナイフとフォークを持ってきた。
だが。
そのナイフとフォークが明らかに汚れていたのだ。
それに気付きながらもそのままセットを終えようとした店員に対し遂にコウイチローはキレた。
「Hey! change. Change! ha!!」
余りに突然すぎる、そして必殺の言葉に3人は一種畏敬の目でコウイチローを見た。
そのときコウイチローはソフトに続けた。
「and 4beers,please.」

コウイチローの素敵すぎるオーダーに続けとばかり
テルヲはある助言をした。
「こっちのピザは小さめなんだよね。だから一人一枚くらいで丁度良いかも。」

結局4人はピザ4枚、パスタ2皿、サラダ2皿をオーダーした。
店員は一瞬怪訝そうな顔をするも再びコウイチローに怒鳴られることを恐れ
素直に下がっていった。
その晩以来、イタリアでのピザは4人で2枚という法則が成立した。


夕食後、メトロでミラノ中央駅に再度立ち寄りホテル最寄の駅で下車をした4人であったが
ここで誰もホテルまでのルートを覚えてないことが発覚。
幸運にもツアー仲間を見つけホテルに辿りつくことが出来たが、
嬉しそうに事態を話すトモに対しぐっさんは
「少しくらい話しを聞きなさい。子供じゃないんだから。」

トモが怒られているロビーと隣接するカウンターバーでコロンと氷の崩れる音がした。
そこには例のサラリーマン風の首男が一人座っていた。



(注4)『こジャレた』『小粋な』同様、若干シニカルな形容詞。うそだけど。
(注4)何だよ、意味わかんねーよ。っていう人は流して下さい。

第3章 完

第4章 花の都でのゲイ術騒動

ミラノからフィレンツェに向かうバスの中でコウイチローは妙な胸騒ぎを感じていた。

『冷静沈着』
一言でコウイチローの性格を表すのであるならこの言葉以外ない。
どのような状況下にあっても慌てることなく最適な解を導き出す。
そんなコウイチローの冷静さは実は多大なる努力の賜物であった。
膨大な資料を調べ尽くし、(例えば選手名鑑)
可能性を感じたものは直接触れ、(例えば県予選見学)
知識を蓄積してゆく。
その研究熱心さに裏打ちされた結果、上信越一冷静な男と呼ばれるようになったのである。

今回のイタリア旅行に当たってコウイチローは事前に幾つかの映画を観ていた。
最重要テーマである「オードリーになる」ために『ローマの休日』を。
そして、ミラノ/フィレンツェ対策として『冷静と情熱のあいだ』を。

ミラノではジュエリーショップのことなど微塵も思い出しはしなかったが、
こうしてミラノ〜フィレンツェ間を移動しているうちに
過去の記憶と絡み合った実に奇妙な運命を感じていた。
「あおい、か・・・。」
ふいに漏れた言葉に引き込まれるように
頭の片隅にひっそりと、しかし強く佇むあの記憶をゆっくり思い出すため
コウイチローは目を閉じた。

そのときである。
「バコン。」
乾いた音が響き、コウイチローは目をあけた。

「あちゃ。取れたよ。いや、取れてたよ。」
座席の取っ手を手にし、惚け顔のトモ

現実に戻されたコウイチローは苦笑いをしながら首を振った。
いやいや、過去のことではないか。
関係ない、関係ないのさ。
そう、俺は冷静な男、コウイチロー。


フィレンツェに着いたもののバスでは市内に入れないため
徒歩でシニョーリア広場へ向かう。
ウフィッツィ美術館に面したこの広場にはダビデ像のレプリカがある。
そのレプリカはどこまでもリアルであった。どこまでも。

ランチは各自でとるように、との指示を受け4人は適当な店を探した。
ミラノでの失敗は繰り返さないよう、出来の良い店員が居る店を探すことにした。

賑やかなカルツァイウォール通りから一本入った静かな通り沿いにその店はあった。
オープンテラスを擁したその店は、こじんまりとしながらも何処となく気品を感じさせた。
そして、なにより4人が惹きつけられたのは美しい店員であった。
ブロンドの髪、蒼き瞳、そして鼻筋の通った顔に常に備わる笑顔。
「美しい・・・」
誰からともなく感嘆の溜息がもれた。

至福のランチタイムが終わり集合場所に戻ると
既に集合時刻を過ぎていた。夢のようなひとときが時間の概念を超えて流れていたのであろう。
そんな4人をもはや注意することすらしないぐっさんは一瞥の睨みをきかせ
ツアーをドゥオモへと導いた。

フィレンツェのドゥオモ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
ドゥオモに並立するジョットの鐘楼
そして向かい会う形で鎮座するサン・ジョヴァンニ洗礼堂。
その壮大さもさることながら、なんと美しき文様。目を見張る色彩対比。
これぞ花の都フィレンツェの象徴である。

ドゥオモ内部に入り、クーポラの内側に描かれた『最後の審判』(ヴァザーリ等)を見学。
もはや4人に言葉はない。

引き摺られるように免税店に案内されるが
トモはコウイチローと抜け出し『サン・ロレンツォ教会』を目指した。
このサン・ロレンツォ教会の他にもメディチ家縁の建築が多数あり、
それらにどうしてもトモは触れたかったのである。

トモは歴史的建造物に触れることに喜びを感じる男であった。
壁に耳を当ててみたり、柱に寄りかかりながら座ってみたり。
100年、あるいは1000年前に同じ場所で過去の人物が自分と同じ行為をしていたのでは
と空想することがスキだった。


『サンタ・クローチェ教会』脇を通過しバスに戻り、『ミケランジェロ広場』へと向かう。
この広場はフィレンツェの街を一望できる小高い丘の上にある。

塀に登り褐色と白色のコントラストを眺めていると耳の奥からEnyaが響き出す。
封印していたはずのあの想い出が再び甦り、慌てて視線を街から外すコウイチロー。
と、あるものに気がついた。
それはサッカーユニフォームの中に紛れ、しかし異彩を放っていた。
こ、これは・・・?ダビデパンツ!?
ダビデ像のある一部分だけを忠実に複写しているそのトランクスは
はいただけで気分が開放的になる代物だ。
コウイチローの頭の中で何かがはじけ、飛び散った。too much pain.
明日、クーポラに登ろう。
決意を秘めたコウイチローの目には蒼く情熱の炎が灯り始めた。


フィレンツェでの宿は街から随分離れたところにあった。
チェックインを済ませ、夕食をとるためフィレンツェ市内に戻る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
ディナーを取った店は『MUTI』。名前で決めた。
陽気な店員と間違った日本語メニュー。
この旅ではもはや当たり前となった
「ビアー、チンクェ。」「ドゥオモ、ドゥオモ、イシイちゃんです。」
を連呼し、ハシャギまくる4人。
結局帰りのバスではテルヲを除く3人は心地良い夢の中におちていった。


ホテルに到着すると、ロビーにはぐっさんの姿があった。
「ツアーのコから、一人酔いつぶれちゃったコが居るからタクシーで帰るって連絡があったの。」
そのタクシー一行を待っているのだと言う。
上信越一責任感の強いテルヲは共に待つことにした。

ホテルのナイトクラブでビールを注文し、『ルノワール』並に柔らかいソファーに腰をかける。
ナイトクラブに他の客は見当たらず、恰幅の良いオーナーがただ一人、新聞のサッカー欄を眺めている。
遠慮深くかかるクラブミュージック。
タクシーはまだ、やってくる気配はない。

「山口先生はこの仕事、何年目なんですか?」
静寂を破ったのはテルヲからであった。

「んーっと。5年目。まだ先生なんて歳じゃないわよ、んもう。」
「ゴメンナサイ。頼り甲斐があるから、つい。他意はないですから。」
テルヲは笑うぐっさんの顔見てほっとする。 「ずっとイタリアの添乗員なんですか。」
「ま、イタリアに限らずヨーロッパってとこかな。」
「恰好良いなぁ。」
「そうでもないわよ。自由になる時間はあまりないからね。
時間があっても頼まれた買い物するくらいだし。それでも好きだから続けているんだけど・・・。
親はそろそろって言うよのね。」
そう言ってぐっさんは空になりかけたグラスに目を落とす。

重くなりかけた空気を払拭すべくテルヲは明るい口調で続けた。
「でもー、ツアコンやっているとモテるんじゃないですか?イタリア人なんてすごいっすよね。
みんなして『cute, cute』言ってるじゃないですか。」
「確かに、イタリアの男性はすごいわね。でもあれは挨拶みたいなものだから。
いちいち間に受けちゃダメなのよ。」
「んと、でも日本人の客にもモテるでしょ?」
「まぁね。でもどうかな。」
少し照れ笑いを浮かべるぐっさんに、テルヲは饒舌に続ける。
「今回の旅でも、こう、なんて言うか、アプローチとかされちゃったりしてませんか。」
その瞬間、一瞬ぐっさんの表情が曇る。明らかに動揺したぐっさんの姿にテルヲは驚く。
なにか、あるな。
「・・・どうかしましたか?」
そう言いかけたとき、ホテルの前に黄色のタクシーが到着した。
「戻ってきたみたいね。大丈夫かしら。」


なかなか戻らないテルヲを探すためトモはムツとコウイチローを誘い、ロビーへ向かった。
ロビーにはツアー客が集まっており、テルヲの姿もそこにあった。
事情をテルヲから聞いたが、
ワインを飲みすぎて酔いつぶれたという女のコは既に回復し、談笑に耽っていた。

その女のコは単独で今回のツアーに参加し、同じく単独で参加していた3人と食事をしていたそうだ。
一人でいる緊張から解放されどんどんワインを煽るうちに酔いつぶれてしまったらしい。
一緒に食事をしていた男にタクシーを呼んでもらい、一眠りしたおかげで回復したそうだ。

「あれ?でも3人しか居ないじゃん。」
不思議そうに聞くムツに対し、スラリとした長身の美男子は歯切れの悪い答えを返す。
「ん。なんか何処かに行っちゃったんですよ。ボクがタクシー呼んでこのコを担ぎ込んでいる間に。」
「電話したのはキミ?」
テルヲが聞くと
「いや、違います。電話なんてしてませよ。だから何で知ってるのかなって。不思議だなって。」

詳細に話を聞くうちに一緒に食事をしていたもう一人の男は
例のこナガイ似サラリーマン風男であることが判明した。
「あぁ、あいつか。」
テルヲとトモが同時に頷く。
テルヲはミラノでの出来事を話そうかと思ったがやめた。
余計になぞを深めると判断したためだ。

「そういや、ぐっさんも居ないじゃん。
つか、疲れてる感じしない?ぐっさん。」
ムツの言葉に相槌を打つテルヲ。

「そのリーマン男とぐっさん、何かあるな。怪しいよ。怪しい。」
沈黙を続けていたコウイチローが口を開いた。
冷静に、確信を持った発言であった。

「アナタ達4人の関係もアヤしいけどね。ホモって噂だけど。ふふっ。」
ワイン女が悪戯っぽく言った冗談に場が改めて和んだそのとき、ロビーの片隅で男の声が響いた。
「山口添乗員殿。あ、明日のフリータイムに・・・ボ、ボクと・・」



第4章 完

第5章 パッションエモーションエクスプロージョン

ぐっさんがどのように答えたかは結局分からなかった。
ロビーに集まっていた皆は解散し各々の部屋へと戻っていった。

迂闊なことを言ってしまったな
テルヲは少し後悔していた。
「明日、どうなるのかなー?」
異様に興奮しはしゃぐトモの傍らでテルヲは沈黙を続けた。

翌日、嵐の人間関係とは裏腹に天気は晴れ上がった。
この日は終日自由行動が許され、
4人はムツのたっての希望であるピサに向かうことになっていた。

史上最も不味い朝食をとりバスでフィレンツェ中央駅へと向かう。
ピサ行きのチケットを購入し駅備え付けのマック(イタリア2回目)で口直しをする。
話しの中心はやはり昨晩のこと。
はしゃぐムツとトモ。冷静に分析するコウイチロー。
テルヲはただ、生返事を繰り返す。

それぞれの思いを乗せ、ピサ行きの列車は定刻の10分遅れで発車した。
が。
フィレンツェ中央駅から2駅過ぎた辺りで突然の停車。
車内アナウンスが流れ列車の故障が知らされる。
同乗していた伊達男に促され4人は列車を乗り替える。

しかし、これだけで終わらないのがイタリア鉄道の娯楽重要視体制である。
満を持して発車した替わりの列車も10分ほどして停車。
またしても故障である。
車内アナウンスによるとウォーミングアップ不足による肉離れということだ。
「おいおい、お前もかよっ。」
申し訳無さそうに横たわる列車(2号)に突っ込みをいれるテルヲとトモであった。

結局2時間を費やしようやくピサに到着。
『イタリアではカリカリしたら巻け』
ノートの最初の頁に書かれた言葉を思い出し
グッと堪えるコウイチローであった。

気をとり直し、駅から斜塔のあるドゥオモ広場へ向かい足を進める4人。
アルノ川沿いに建ち並ぶカラフルなバロック風建物を眺めながら歩いているとき
目の前にあの男が現れた。

『現れた』という表現は適切ではないかも知れない。
『すれ違った』だけだ。
ただ、余りにも突然過ぎる、そして予測していなかった出来事に4人は暫し言葉を失った。

「…つけられてたのかな。」
「いや、そんなことはないだろ。斜塔を見終わって帰るところだったんじゃん?」
「しかし、早過ぎるな。何時にホテルを出たんだ?」

「ぐっさん居なかったな。」
「あ、そだね。一緒じゃなかったね。ダメだったのかぁ。なーんだ。」
「ちょっと怒った顔してたじゃん。」
「ちょっと涙ぐんでたよね。」
「うそつけ。」
「あ…」

突然視界に飛び込んできた斜塔にムツは再び言葉を失った。
念願だったその塔は写真や映像で見るものより傾いているように見えた。

是非登りたい
そう思ったが予約なしでは登れないことも知っていた。
ずっと見ているだけでも飽きないな、
本来有るべき姿勢ではない姿勢で建ち続ける斜塔。
その完全なる不完全さにムツは強く惹きつけられるのである。
ドゥオモ広場の芝生に寝転がり時が経つのも忘れ斜塔を見つめ続けるムツであった。


ずっと残ると言い張るムツを引き連れフィレンツェに戻った4人は
ミケランジェロの作品群が見所の『アカデミア美術館』を見学することにした。
『ピエタ』『髭の奴隷』『奴隷アトラス』『若き奴隷』
それらの作品の先には、本物の『ダビデ像』である。
足の指先から髪の質感、腕の血管までまさにリアル。
石の冷たさ、重さを感じさせないその芸術は、バカなアメリカ観光客ならずとも
フラッシュをたいて写真におさめたくなるであろう。


アカデミアを後にした4人は続いてドゥオモのクーポラに登頂することにした。
延々と続く螺旋階段を登るうちにコウイチローの胸は高鳴り始めた。
「はは、運動不足のおかげで胸がドキドキするぜ。」
毎朝ジョギングしていることを知っていた3人は
そのドキドキ感に別の要因があることも知っていた。

息を切らせ登りきったクーポラからのフィレンツェ市街は
夕日によってより一層赤褐色に染め上げられていた。

「あーおーいーっ」
堪えきれない熱い思いを爆発させ、コウイチローが叫ぶ。
このときコウイチローは上信越一冷静と情熱の男となった。



第5章 完

第6章 悪魔の微笑み

イアリア滞在5日目。
この日は『ウフィッツィ美術館』を訪れた後、ローマに向かう予定であった。
ラファエロから行くか、カラヴァッジョか。はたまた王道でボッティチェリか。
ウフィッツィでの絵画鑑賞の順番を議論していた4人は
朝食の時間を5分過ぎていることに気がついた。

慌てて食堂に向かうと既に他のツアー客は席につき
朝食を取り始めていた。
4人一組の席が空いて居なかったためバラバラに座ることとなった4人。
テルヲは導かれるよう、例の男の隣に座った。

「昨日、ピサで会ったyoね。」
例の男の言葉を切欠に話しが始まった。

少し離れた位置に座っていた3人はそれぞれ、その様子を目撃していた。
しかし会話の内容までを聞き取ることは出来なかった。
しっかりとテルヲだけを見つめ話す男。
それに相槌を打つテルヲ。
テルヲを見つめ話し続ける男。
相槌を打ち続けるテルヲ。

朝食が終わり部屋に戻ったテルヲを3人が取り囲む。

「なんか随分親しげにしてたじゃん。」
「…」
「ぐっさんとの話しとか聞いた?ねぇ。聞いた?」
「…」

何を聞かれても答えようとしないテルヲ。
思い詰めた表情にことの深刻さを感じ、重い空気が流れる。
暫くしてコウイチローが切り出した。。
「何かとんでもないことを言われたのか?」

テルヲはゆっくりと話し始めた。
「とんでもない、っていうか…」


「昨日、ピサで会ったyoね。びっくりだったよ。
ボクはタナカゲンジ。
歳は32で、独身。
埼玉のファッション都市、入間でアパレル関係の仕事をしているのサ。
去年の秋からチーフデザイナーになり、
今回はイタリアのトレンドチェックのための旅行。
旅行は昔から好きで、一人で気侭に旅するのが専ら。
感性を邪魔されるというか、束縛されるのが嫌いなタイプなのサ、分かる?

まぁ仕事の話しはどうでもいいか。
オホン。
単刀直入に言うとね、ボクは今、恋をしている。
仕事上、様々な女性を見てきていて、内面から滲み出す美、
上辺だけではない、何て言うんだろ、感性?、そう、感性の美しさみたいなものが
見えるように成ってきたのサ。分かる?

でね、単刀直入に言うと今回の旅はバッチリ。
勿論ミラノ、フィレンツェと渡りトレンドもがっちり掴んだってのもあるけど
今は恋の話しサ。
何て言うんだろ、そう、完成された感性、はは、上手いこと言うね、ボク。
感性バッチリンコの女性に出会えちゃったのサ。
もうビビビだね、分かる?

オホン。
でだ。単刀直入に言うとその女性とは添乗員さんサ。
このツアーの前日に態々電話してきてくれる辺りから予感はしてたんだけどね。
あの声、口調から滲み出てた感性は本物だったよ。
成田で会ってみてビビビ。
彼女の方も直感で分かったみたいだし。オンナの第6感は鋭いからね。
ボクへの接し方がもう違うんだよ。
照れてる、照れてる。見たいな感じ。分かる?

昨日だって、一緒にピサでもどうだい?
なんて誘ってみたら「仕事だから…」なんて照れちゃって。
もう間違いないって感じだな。な?

で。単刀直入に聞くけど、お前アレだろ?
添乗員さんのこと狙ってたろ?
いやいや、いいんだよ、別に起こっちゃいないからサ。
ま、お前っていうか、お前等4人の中の誰かが狙ってたてのは分かるからサ。
感性だよ、感性。滲んでるの。

でもな。単刀直入に言う。諦めろ。ムリだ。
もしお前じゃないならあとの3人に言っておけ。
アイツはボクのものだ。
分かる?
アイツはボクのものだ。」


「なんか眼がね、ヤバかった。」
話しを終え、憔悴し切った顔を見せるテルヲ。
そのテルヲを3人はただ呆然と見つめることしか出来なかった。


フィレンツェ最後のスポット、『ウフィッツィ美術館』。
『ヴィーナス誕生』『春』『イサクの犠牲』『ロッソ・フィオレンティーナ』など
数々のルネッサンス絵画もテルヲの心を癒すことは出来ない。

いつになく元気のないテルヲに気付きぐっさんが声をかける。
「どうしたの?具合でも悪いの?」


ウフィッツィでの絵画鑑賞も終わり、ヴェッキオ橋を眺めフィレンツェをあとに。
ローマへ移動するバスに乗り込んだとき、テルヲは顔を歪めた。

いつも座っていた後ろから2列目右サイドの席が取られていたのである。
お気に入りの席、後ろから2列目右サイドの席が取られていたのである

席を占拠していたのは見知らぬオンナ2人組。
我がモノ顔で座っている。

仕方なしに一番後ろの席につくテルヲ。
しかし、この嫌がらせが仕組まれたものであり
これから起こる大事件の引き金であったことは誰一人として知る由もなかった。

バスは一路ローマへ。
狂った悪魔を乗せて。



第6章 完



第7章 『全ての無知はローマで痛ず』はココから飛んで下さい。