ミラノからフィレンツェに向かうバスの中でコウイチローは妙な胸騒ぎを感じていた。
『冷静沈着』
一言でコウイチローの性格を表すのであるならこの言葉以外ない。
どのような状況下にあっても慌てることなく最適な解を導き出す。
そんなコウイチローの冷静さは実は多大なる努力の賜物であった。
膨大な資料を調べ尽くし、(例えば選手名鑑)
可能性を感じたものは直接触れ、(例えば県予選見学)
知識を蓄積してゆく。
その研究熱心さに裏打ちされた結果、上信越一冷静な男と呼ばれるようになったのである。
今回のイタリア旅行に当たってコウイチローは事前に幾つかの映画を観ていた。
最重要テーマである「オードリーになる」ために『ローマの休日』を。
そして、ミラノ/フィレンツェ対策として『冷静と情熱のあいだ』を。
ミラノではジュエリーショップのことなど微塵も思い出しはしなかったが、
こうしてミラノ〜フィレンツェ間を移動しているうちに
過去の記憶と絡み合った実に奇妙な運命を感じていた。
「あおい、か・・・。」
ふいに漏れた言葉に引き込まれるように
頭の片隅にひっそりと、しかし強く佇むあの記憶をゆっくり思い出すため
コウイチローは目を閉じた。
そのときである。
「バコン。」
乾いた音が響き、コウイチローは目をあけた。
「あちゃ。取れたよ。いや、取れてたよ。」
座席の取っ手を手にし、惚け顔のトモ。
現実に戻されたコウイチローは苦笑いをしながら首を振った。
いやいや、過去のことではないか。
関係ない、関係ないのさ。
そう、俺は冷静な男、コウイチロー。
フィレンツェに着いたもののバスでは市内に入れないため
徒歩でシニョーリア広場へ向かう。
ウフィッツィ美術館に面したこの広場にはダビデ像のレプリカがある。
そのレプリカはどこまでもリアルであった。どこまでも。
ランチは各自でとるように、との指示を受け4人は適当な店を探した。
ミラノでの失敗は繰り返さないよう、出来の良い店員が居る店を探すことにした。
賑やかなカルツァイウォール通りから一本入った静かな通り沿いにその店はあった。
オープンテラスを擁したその店は、こじんまりとしながらも何処となく気品を感じさせた。
そして、なにより4人が惹きつけられたのは美しい店員であった。
ブロンドの髪、蒼き瞳、そして鼻筋の通った顔に常に備わる笑顔。
「美しい・・・」
誰からともなく感嘆の溜息がもれた。
至福のランチタイムが終わり集合場所に戻ると
既に集合時刻を過ぎていた。夢のようなひとときが時間の概念を超えて流れていたのであろう。
そんな4人をもはや注意することすらしないぐっさんは一瞥の睨みをきかせ
ツアーをドゥオモへと導いた。
フィレンツェのドゥオモ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
ドゥオモに並立するジョットの鐘楼。
そして向かい会う形で鎮座するサン・ジョヴァンニ洗礼堂。
その壮大さもさることながら、なんと美しき文様。目を見張る色彩対比。
これぞ花の都フィレンツェの象徴である。
ドゥオモ内部に入り、クーポラの内側に描かれた『最後の審判』(ヴァザーリ等)を見学。
もはや4人に言葉はない。
引き摺られるように免税店に案内されるが
トモはコウイチローと抜け出し『サン・ロレンツォ教会』を目指した。
このサン・ロレンツォ教会の他にもメディチ家縁の建築が多数あり、
それらにどうしてもトモは触れたかったのである。
トモは歴史的建造物に触れることに喜びを感じる男であった。
壁に耳を当ててみたり、柱に寄りかかりながら座ってみたり。
100年、あるいは1000年前に同じ場所で過去の人物が自分と同じ行為をしていたのでは
と空想することがスキだった。
『サンタ・クローチェ教会』脇を通過しバスに戻り、『ミケランジェロ広場』へと向かう。
この広場はフィレンツェの街を一望できる小高い丘の上にある。
塀に登り褐色と白色のコントラストを眺めていると耳の奥からEnyaが響き出す。
封印していたはずのあの想い出が再び甦り、慌てて視線を街から外すコウイチロー。
と、あるものに気がついた。
それはサッカーユニフォームの中に紛れ、しかし異彩を放っていた。
こ、これは・・・?ダビデパンツ!?
ダビデ像のある一部分だけを忠実に複写しているそのトランクスは
はいただけで気分が開放的になる代物だ。
コウイチローの頭の中で何かがはじけ、飛び散った。too much pain.
明日、クーポラに登ろう。
決意を秘めたコウイチローの目には蒼く情熱の炎が灯り始めた。
フィレンツェでの宿は街から随分離れたところにあった。
チェックインを済ませ、夕食をとるためフィレンツェ市内に戻る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
ディナーを取った店は『MUTI』。名前で決めた。
陽気な店員と間違った日本語メニュー。
この旅ではもはや当たり前となった
「ビアー、チンクェ。」「ドゥオモ、ドゥオモ、イシイちゃんです。」
を連呼し、ハシャギまくる4人。
結局帰りのバスではテルヲを除く3人は心地良い夢の中におちていった。
ホテルに到着すると、ロビーにはぐっさんの姿があった。
「ツアーのコから、一人酔いつぶれちゃったコが居るからタクシーで帰るって連絡があったの。」
そのタクシー一行を待っているのだと言う。
上信越一責任感の強いテルヲは共に待つことにした。
ホテルのナイトクラブでビールを注文し、『ルノワール』並に柔らかいソファーに腰をかける。
ナイトクラブに他の客は見当たらず、恰幅の良いオーナーがただ一人、新聞のサッカー欄を眺めている。
遠慮深くかかるクラブミュージック。
タクシーはまだ、やってくる気配はない。
「山口先生はこの仕事、何年目なんですか?」
静寂を破ったのはテルヲからであった。
「んーっと。5年目。まだ先生なんて歳じゃないわよ、んもう。」
「ゴメンナサイ。頼り甲斐があるから、つい。他意はないですから。」
テルヲは笑うぐっさんの顔見てほっとする。
「ずっとイタリアの添乗員なんですか。」
「ま、イタリアに限らずヨーロッパってとこかな。」
「恰好良いなぁ。」
「そうでもないわよ。自由になる時間はあまりないからね。
「時間があっても頼まれた買い物するくらいだし。それでも好きだから続けているんだけど・・・。
「親はそろそろって言うよのね。」
そう言ってぐっさんは空になりかけたグラスに目を落とす。
重くなりかけた空気を払拭すべくテルヲは明るい口調で続けた。
「でもー、ツアコンやっているとモテるんじゃないですか?イタリア人なんてすごいっすよね。
「みんなして『cute, cute』言ってるじゃないですか。」
「確かに、イタリアの男性はすごいわね。でもあれは挨拶みたいなものだから。
「いちいち間に受けちゃダメなのよ。」
「んと、でも日本人の客にもモテるでしょ?」
「まぁね。でもどうかな。」
少し照れ笑いを浮かべるぐっさんに、テルヲは饒舌に続ける。
「今回の旅でも、こう、なんて言うか、アプローチとかされちゃったりしてませんか。」
その瞬間、一瞬ぐっさんの表情が曇る。明らかに動揺したぐっさんの姿にテルヲは驚く。
なにか、あるな。
「・・・どうかしましたか?」
そう言いかけたとき、ホテルの前に黄色のタクシーが到着した。
「戻ってきたみたいね。大丈夫かしら。」
なかなか戻らないテルヲを探すためトモはムツとコウイチローを誘い、ロビーへ向かった。
ロビーにはツアー客が集まっており、テルヲの姿もそこにあった。
事情をテルヲから聞いたが、
ワインを飲みすぎて酔いつぶれたという女のコは既に回復し、談笑に耽っていた。
その女のコは単独で今回のツアーに参加し、同じく単独で参加していた3人と食事をしていたそうだ。
一人でいる緊張から解放されどんどんワインを煽るうちに酔いつぶれてしまったらしい。
一緒に食事をしていた男にタクシーを呼んでもらい、一眠りしたおかげで回復したそうだ。
「あれ?でも3人しか居ないじゃん。」
不思議そうに聞くムツに対し、スラリとした長身の美男子は歯切れの悪い答えを返す。
「ん。なんか何処かに行っちゃったんですよ。ボクがタクシー呼んでこのコを担ぎ込んでいる間に。」
「電話したのはキミ?」
テルヲが聞くと
「いや、違います。電話なんてしてませよ。だから何で知ってるのかなって。不思議だなって。」
詳細に話を聞くうちに一緒に食事をしていたもう一人の男は
例のこナガイ似サラリーマン風男であることが判明した。
「あぁ、あいつか。」
テルヲとトモが同時に頷く。
テルヲはミラノでの出来事を話そうかと思ったがやめた。
余計になぞを深めると判断したためだ。
「そういや、ぐっさんも居ないじゃん。
「つか、疲れてる感じしない?ぐっさん。」
ムツの言葉に相槌を打つテルヲ。
「そのリーマン男とぐっさん、何かあるな。怪しいよ。怪しい。」
沈黙を続けていたコウイチローが口を開いた。
冷静に、確信を持った発言であった。
「アナタ達4人の関係もアヤしいけどね。ホモって噂だけど。ふふっ。」
ワイン女が悪戯っぽく言った冗談に場が改めて和んだそのとき、ロビーの片隅で男の声が響いた。
「山口添乗員殿。あ、明日のフリータイムに・・・ボ、ボクと・・・」
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